Ex-Libris
04

そこはあなたの****会場ではない
「クリエイター」の一里塚

“Art, literature, drama, film, song, they’ve all embraced story, but they all tell it in their own unique way. I feel like we need to deliver our story in a way that is uniquely videogame. We need to engage our audience by letting them be the hero, the villain, or the victim…We are very fortunate that we work in a medium where we can use all of our other art forms to tell our story, but we need to engage our players in sort of an inspiring experience. The sooner that we accept that we are not Shakespeare, we are not Scorsese, Michelangelo, Tolstoy or the Beatles, the better off we are. If it makes us feel better, Shakespeare couldn’t 3D model his way out of a paper bag, Scorsese couldn’t program ragdoll physics, and the Beatles are pretty lousy at balancing three unique race on an RTS battlefield.”
“We need to stop writing a ******* book in our games,”

GDC 09: Breaking Down World of Warcraft – PC Feature at IGN

芸術、文学、演劇、映画、音楽、これらは全て物語を持っている、しかし、全て違う方法によって、だ。僕たちはビデオゲームならではの方法で物語を伝える必要があると思う。
僕たちは、僕たちの観衆を雇う(プレイヤーに物語の役を演じてもらう)必要がある。英雄として、悪役として、…時に犠牲者として。非常に有利な点として、僕たちの仕事の媒介として先に挙げた他の物語の手法を使うことができるということがある…が、それには観衆の感動をいくばくか喚起し、そして体験してもらう必要がある。
まずは受け入れよう、僕たちはウィリアム・シェイクスピアではないし、マーティン・スコセッシでもミケランジェロでもない、トルストイ、ビートルズ、…偉大なる彼らのどれでもない。
あるいはこう簡単に考えればいい、シェイクスピアは3Dモデルで紙袋を作り出せはしないだろうし、スコセッシはラグドール物理演算プログラムを組めないだろう、そしてビートルズにやらせれば3勢力のRTSのバランス調整は(思い切り控えめに言っても)かなり悲惨なものにしかならないはずだ。

僕たちは、僕たちのゲームの中で、そびえ立つクソその物のホン(脚本)を書くのを止めなければならない。

訳注
マーティン・スコセッシ:アメリカの映画監督
ragdoll:「ぬいぐるみ」の意、人体がダメージを受けて倒れる際の表現のための物理演算

何が始まるんですか?

冒頭の引用はWoWの開発者のインタビュー記事の抜粋。実はこれ、とあるネットゲームのレビューに付けようと思ったところ、何だかこの穴に落ちたゲームが大量にあってどうした物か、とエントリを割くことにした。

ゲーマーとうっかり呼ばれる可能性がある位に遊んでいるならば、作り手のエゴがむき出しになった要素にぶつかった経験はあるはずだ。それがネットゲームならゲーム自体が熱中させる仕組みの上であるだけに、包丁持ったダディクール(分からなければスルーしていい)状態になったことすら。
で、そういった要素をせっせと混ぜ込んで楽しい時空間を台無しにしている開発者のインタビューを読むと、恐ろしい事に気付く。彼ら、ほぼ確実に悪意は無い。

一里塚

「『リアル』を実現することが良いゲームへの道となる」
この無邪気な思い込みがプロジェクトXに繋がればいいのだけど、地獄への道に何が敷き詰められているかの話を思い出すのはぼくの心の貧しさだけが原因ではないはずだ。

「リアル」以外でも「キャラクター性」やら「ストーリー」でも容易に死への道標と化す。実際、引用の内容は各メディアの持つ物語る力を引き入れようとして、そのまま混ぜ込むのは各メディアの巨匠にゲーム開発をさせるようなものだ、というもの。これは慧眼だと思う。

最も大切なのは、ゲームというのは何かの集合体であり、ある面では現実の一部をモデルとして切り出したものだということだ。
くっだらねえクソゲーをワイワイと知り合いと遊んでしまったり、どうしようもない動画で盛り上がるのは、実は正常だ。ぼくたちはおそらく、娯楽その物ではなくその後ろの得体の知れない何かを遊んでいる。

なぜ、同じ穴に落ちるのか

ゲームはそれ自体で一つのメディア、表現手法だという点が無視されているのが一つ、また、「面白さ」への至る道があまりに曖昧で不安の中を進むという点もあると思う。
一目見て分かる現実との近さ、これ以上直接的に評価される要素はそうそうない。

だけど、もっと大きな理由は他にあるんじゃないかと思う。
それは、正にユーザーからの(現在だけでなく過去に受けた)フィードバックそのものだ。
ユーザーはその瞬間に自分がつまらないと感じているかにはとても敏感だ。しかし、その不満が何に起因するのか、ましてやそれをどう解決するのかに関しては全くと言っていいほど役に立たない。
そういった時、どこかで借りてきた言葉、「リアリティ」やらを引き合いに出し、それを真に受けると悲劇が始まる。

でも、ユーザーの「リアル」なんて相当ご都合主義だ。
ブルボン小林の「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」の指摘通り、スペランカーが下り坂に向かってジャンプして死ねばそれは20年もつクソゲーネタだけど、マリオが遥か上空から落ちて無傷でも誰も気にしない。
今じゃ主翼を敵弾がかすって終わりの2DSTGが出たら見向きもされないだろうけれど、さかのぼって首領蜂が出た時にリアリティがないというツッコミは一度も聞かなかった。
「リアル」とは「違和感とストレスを感じない」であって、「現実と同じ」ではない。だが、至る手段で道は時に重なり、そこに落とし穴がある。

素晴らしい体験への道として

結局、ぼくたちは、プレイヤーは、楽しい体験への道具、手段として「リアリティ」が欲しいのであって、リアルを積み重ねれば素晴らしい体験世界が生まれるわけではない。
リアリティを産み出す力は良い仕事に不可欠であっても、目的を失って現実に単に近づけただけのパラメータ群は単に害悪なだけだ。

そもそも、現実そのままが良ければ現実を生きるわけで…じゃあ何でゲームを遊んでいるのだろう、ゲームを作っているのだろう。
そういうことだ。

蛇足の昔話

伝聞が大半になることをお断りしておく。
この辺りの話はボードゲームとTRPGの大先輩に聞き、ぼく自身はデータの抽象化と運営進行の言語化の始まった1995年ごろからがゲーマーとしての始まりだったりする。

その昔、まだビデオゲームでのRPGやらがまだまだリアリティという言葉すら獲得できなかった頃(余談だが、PONに「テニス」を見出した感性は弓矢の発明に匹敵する)、ボードゲーム畑は恐竜的進化を遂げていたそうだ。ゲームのパラメータは増え続け、ルールは厚くなり、中には自ユニットが部位別に分かれたコマで表現され、手や足のコマをハノイの塔のように積み重ねた物まであったそうだ。
そんなボードゲームの子孫…多分直系ではないが…であるTRPGもやはりそういった恐竜的進化を一時期遂げた。あるゲーム(確かルーンクエストだったと思うが…)では剣の切り込んだ角度まで決めていたのだから、それを強引に回していた当時のプレイヤーを称えるべきかどうか…。

実際のところ、何でもデータ化すれば楽しさにつながるリアリティが立ち上がる、というのは「本当に」何でも積み込めるTRPGで既にやって、今やアンチパターンに近い扱いを受けてしまっていると思う。
GURPSはギリギリ例外だろうけど…あれってキャラメイクが一番楽しいという倒錯がひどくないかい?

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